※この記事は、2020年7月18日にSUNAO BLOGにて公開されたものです。
こんなタイトルのブログ書きたくなかった。
でも、今の私には書かずにはいられない。
彼の歌とダンスが好きだった。
ドラマよりも、ミュージカルの舞台に立つ彼が好きだった。
そんなことを言っておきながら、私は彼の舞台を生で観たことはない。
YouTubeでキンキーブーツの映像を見て衝撃を受けた。昨年のことだ。
それまでは「三浦春馬」という俳優について特に思い入れはなかった。
でも、あの舞台のローラ役は違った。
今まで見たことのない、突き抜けたパフォーマンスに心を奪われた。
日々の退屈さや鬱屈を、その瞬間はすべて取り払ってくれるような、観る者を全く別の世界に連れ去ってくれるような、そんなパフォーマンスだった。
キンキーブーツの初演の頃、一部の人たちから「小池徹平と役を替われ」などと言われたこともあった、というのを彼が鬼籍に入ってから知った。
しかし、あの役は三浦春馬にしか出来なかった。それは再演で、更に己を研鑽した姿で舞台に立った彼を見れば、誰の目からも明らかだった。
それまで、若手俳優の1人としてしか彼のことを見たことがなかったが、あの時の全身から溢れ出るエネルギーは、既に「若手俳優」とは呼べないものへと変貌を遂げていた。
どれだけストイックに、体を絞り、正しい発声を身に付け、新たな表現を手にするために努力してきたことだろう。
真似しようと思っても、誰もが出来るわけではない尋常ではないほどの努力それらを、自らの命を手にかけることで彼は無きものにしてしまった。
こんなに悔しいことがあるのだろうか。
芸能人の死は、確実に世の中に影響を与える。
別にファンだったわけでなくても、長年メディアへの露出が多い人物ほど、見ていた人に衝撃を与えるのだ。
それは、今まで活躍していた姿と「死んだ」という事実が、あまりにイメージとしてかけ離れているからだろう。
彼の死もまた、例外なく国民の多くに衝撃を与えた。
訃報を知った時、これが現実なのか判断に迷った。
でも明らかに、見えているのは「三浦春馬 死亡」の文字なのだ。
あんなに舞台で輝いていた彼がなぜ「死亡」するのか。しばらくの間、頭の中は茫然とした。
そしてそれはボディブローのように、じわじわと虚無感となり心にぽっかりと穴を開けた。
私は別に三浦春馬のファンではない。だけど彼の歌とダンスが、大好きだった。
これからどんどん表現力を磨き、ミュージカル界の重鎮になるものとばかり思っていた。
市村正親や鹿賀丈史、あるいは別所哲也のように。ずっとミュージカルに出続けて、着実にキャリアアップするものと思っていた。
それがこんな形で自ら幕を下ろすなんて。
これからも多くの人に勇気を与え称賛を浴び、栄光に満ちた役者人生を歩むはずではなかったのか。
それを彼は、自らの手で閉ざしたのだ。
この感情がなんなのか、自分でもまだ整理がつかないけれど、私は多分怒っている。
彼の苦しみは彼にしかわからない。当たり前のことだ。
でもその苦しみの源は、彼が持つ独特の高い感受性から生まれているのだと思う。
その感性が、彼をあそこまでの表現力を持つ役者にしたことも間違いない。
まさに生まれ持った才能である。
その才能の原点が、彼に死を選ばせてしまったのかもしれないことは、近くにいた人でさえも介入する余地がなかったのかもしれない。
これが彼の運命なのだとしたら、ものすごく悲しいことだ。
でも、そうではなかったと信じたい。
ほんの一瞬の心の揺れが、彼を死へと向かわせてしまったのかもしれない。
もし少しでも、何かのタイミングがずれていれば、こんな人生の終わり方をしなかったのではないかと思いたい。
彼の死に様からは、残された人にこんなにも無念と悲しさを与えるのが自死だということを、教えられたような気がする。
これは何かの映画を観させられているのだろうか。
観る人に様々な感情を沸き起こさせるのが役者だとするなら、三浦春馬は紛れもなく本物の役者だった。
関連記事